ケアとセラピー
傷ついた人は、ひび割れた器だと思います。
今まで欲しかったものを蓄えたいと躍起になって取り入れても、亀裂から漏れ流れてしまう。
それが言い訳だとか、望んでいるんだろうと煽られても、そうじゃないけど出来ないというのが事実で、もうしょうがない。
ただ、欲しいものも、嘘じゃなく真実で。
受け入れて、抱き込み、留める為に、ひび割れを修復して穴を塞ぐ事が必要なんだなとしみじみ思う。
それは、ケア。
欲しいものを取り入れる為の工夫や挑戦は、セラピーだ。
ケアは難しい。
セルフケアなんてよく聞くけど。
誰かに寄り添って貰えるなら、どれだけ心強いだろう。
踏み出す為のセラピーをする前段階。だけどセラピーを確実にセラピーたらしめる為に絶対必要なもの。
ただただ寄り添い、見守り、孤独を打ち払う作業は、気が遠くなるほどの忍耐が必要になる。
あたしは、ずっとケアがほしくて。
欲しいからこそ、堂々とねだることが出来ず。
だからこそ、人に対してケアを手厚くする事に執着した。自分が欲しくて手にはいらないから。
あたしは、今の自分を全く信じられない。
価値を見出だせない。
だけど、傷が癒えた自分を夢想すると、その段階の自分なら、きっと間違わないんじゃないかなと。ぼんやり思える。
セラピーはケアよりやりやすい。
目標を差し出し、そこまで誘導するのだから。セラピストの経験や知識、感想、好き嫌いをぶつけて、相手を動かす。そこにはセラピストの意志があって当然だから。
ケアは、違うと思う。
動かない、動けない相手が、目に見えない「動けるかもメーター」を自力で持ち上げる事を、ただ受け止めて絶対一人にしない。安心感を与える。
こんなものは、余程切羽詰まった親子でもなければしてやれない。
親子でもなければって、あたしにはなんて皮肉だ。でも悲しいことに、世間に伝わりやすく例えるなら、あたしの語彙力やサンプルケースじゃ、これが出てきてしまう。
それだけ、自分は普通じゃないということだ。世間と食い違うっていうことだ。
世の中の常識。安パイ。当然であるべきもの。
あたしには、凶器に見えてしまう。
だから、いろいろしょうがない。
ケアを求めてしまうあたしに、病院の先生でさえセラピーを飲み込めと煽るんだから。
あたしは、実家で瀕死だった。
どんな手段にせよ逃げ出せたら、あたしの人生は花丸だと決めていた。
だから、あたしが今、苦しんで、死にたい思いがミチミチになるのを薬でごまかして、毎日をやり過ごしていても。
失敗ではないのだ。
ケアが出来ず、壊れたまま、終わっても、なんとなく泣きながら生きても、あたしは成功した。
その上で、楽になりたいと、あれこれ思い悩むのはオプションである。
セラピストは、相手が幸せになっていかないと無力感に襲われるけど。
別にそんなイライラしなくて良いよって思う。
病院の先生は金とってるんだから、ちゃんとしてくれと思うけど。
家族や友人は、あたしを幸せにする義務なんかない。
イライラして、あたしが苦しくなるようなことを言われる方が苦しくなる。
あたしは今、誰かの単発イライラを受け流すことも難しい。
わからないなら、否定しない為に、さわらないでもらえたら。
寄り添ってもらえたなら、大事にされたと感じられるけど。
あたしは、わからないなら調べたり、聞いたりしたいから、ちぐはぐに混乱する。
あたしはセラピーに踏み出す自分を、想像する。
それは誰かに支えられて、やっと歩くようなイメージじゃない。
自ら、立ち上がって、自分のタイムテーブルを回している姿だよ。
今は、妄想でしかないけれど。
先日、束の間の独り時間に、これまで自分を慰める儀式だと思ってきた作業をした時。弾けたように叫んでしまった。
違う!違う!あたしは安心したいんだよ!
誰にも話したことがない、あたしが自分を慰める為の秘密の儀式は、自分が虐げられ、傷つけられる場面を妄想する事だった。
違うと泣いて叫んだ。
拒絶した自分を誉めてやりたい。
他人の目から見てどうあろうと。
死ぬまで苦しいと泣き暮らしても。
ありがとうと感謝するのも疲れたね。
お疲れあたし。
今日も生き残ったのか。