メモ

避難所。

魔法の鍵は

私の心を開かせて、望むように導きたいと、思う人は何をするだろう。




望むように。
誰から見ても元気に走り回れるように。
仕事にやりがいを見つけ、周囲に人の輪が作れるように。
好きな事を、屈託なく笑いながら楽しめるように。



子供の事は子供の事と、割り切って、自分の人生を謳歌できるように。




ここ数日、観ていたドラマに「コミュニケーションとは、Shall we ダンス?である」とあった。
コミカルなドラマは面白おかしく、説明してくれていた。
分かりやすい、王道ともいえる例えなのに、なんだか感心した。
自分が、久しく「Shall we ダンス?」と手を伸べようか悩んだり、相手が手を差し伸べているケドどうしたら的な場面に立っていない。私が約束をして会ったりする人間は、5本の指で数えても指めっちゃ余る。
私の中では事情を立て並べられるけど、周囲からすればただ引きこもっているようにも見えるだろう。




昨日、行きたくない行きたくない行きたくないと歯ぎしりしながら行った、病院。
主治医とのやりとりが、酷かった。


私は、はらわたが煮えくり返るような気持と、どす黒いコールタール状のものを足に引っ掛けられたような気持ち悪さで帰宅した。


一日たった今、ようやっとドラマでいうところの「Shall we ダンス?」で例えるなら…と想像して、自嘲することができた。自嘲することができたという表現はヘンテコだけど。訳が分からない怒りと惨めさと悔しさが素体のまま荒れ狂っていた昨日よりはマシだと思ったから、自嘲できる程度にカメラを引けたっていうことで。


主治医と私は…まあ到底ダンスを踊っていたとは言えない。
お互い、相手から引き出したい動きがあるものだから、一緒にステップを踏めない。



私は誘い待ちぼうけ。
主治医は型通りである自分の動きに貴方が合わせて当然だと、あるべきポジションで、パートナーの手を握っているようなポーズを一人でとっている。




以前から、診察が嫌で嫌でどうしようもない私。
なんでそんな嫌なのか。
ちょっと真面目に考えてみると、凄く簡単な図式じゃないかと思う。



お互い、相手を知りたいという素振りを見せていないからだと思う。


主治医は医者で、患者に同調し過ぎるのは良くないとか、あるだろうなと思う。
それでもだ。
ただただ、自分の示したもの以外を見下すような態度。一本道のそれに違和感を訴えようとすると遮る。患者のことを知らずして、貴方は誰を治療するのかと思う。
彼にとって、患者は人ではないのだろうか。自分が垂れ流すセラピーなるものや薬についてこられる人間しか相手にしたくない空気が感じられる。とりあえず政治の例え話はやめて欲しい。


私は私で、相手がお医者だから、患者の私が楽に息を付いて、主治医がさせたがっている次のステップを視野にいれたいと思える方法があるじゃないか、なぜそのたった一言をくれないんだ、患者の私が知っているのにと、恨みにも似たもんが、のしのしと積もる一方。主治医がどんな気持ちかを想像しすぎて多分肥大したそれを聞きたくないレベルになっていた。



主治医は精神科医だけど、心理学とは畑が違うのだろうか。
私は医学のことは、さっぱり分からないけど。
精神科医とは、心の無理をして、脳が疲弊し身体に正常な信号を送れなくなった患者を扱うものだと、私は認識していて。それであれば、人の心がどんな経緯をもって、どうなるのか、どうなりやすいのか、学ぶものだと思っている。と、いうか、思っていた。
違うのかもしれない。
昨日、主治医と「Shall we ダンス?」が出来なかったことを思う。
ダンスどころか、主治医は犬のしつけをするような感覚なんじゃないか。
そして私は、八百屋に対して「豚コマ300あればご飯支度ができるのに」と恨んでいるんじゃないか。


1度書き上げたコレを読み返して、良くない習慣に似ていると、なんだか落ち着かなくなった。







それでも昨日、私はいつもと違うことをした。

「どうでしたか?」と質問する癖に、私の話を遮る主治医に。


黙ってみせた。


いつもは「不安が多い人は説明したがりなんですよ。でも時間は有限なのわかりますよね」とか言われちゃう患者が、話を聞かせてと言われたのに遮られている事に、違和感があると。口を閉ざして、その意味を考え、そうですか。とだけ返す。ある意味…凄いにらみ合いだった。



わざと、そうしてやった!などという話じゃない。
私は主治医にダンスできそうかな?と、様子をうかがっていたんだと思う。


以前から診察中に苦しく感じているもの。
病院に行った帰りに惨めで悔しくて、呆然とする謎。
それを、終わってから「なんでだ」と嘆いてきたから、丁寧に診察を受けてみた。そんな感じ。


その結果、私は昨日反省していた。


診察中は、いつも助けて救ってと、考えることもできず、ただ泣いてばかりいた。
考えるより、主治医の顔色が気になって仕方が無かった。
薬をどういう風に調整されるのかは、彼の手にかかっているし、精神戦の苦しみを扱うエキスパートである彼が、私を「その程度」と笑うのが悔しくて惨めでならなかった。煽るような事を言われて、余計に加熱してきた。そして炭のようになってしまう。



反省はしたけど、このジレンマをどうにかするのは症状に苦しむ私だけの仕事なのかと、じゃあなんで診察料貰ってるんですか?って、やっぱり腹も立った。





前回の診察で彼が言ったことが、考える尻尾になった。


「精神病の病名が付かない貴方なんて、たいしたことじゃないんですよ。」





今回の診察で彼が笑いながら言ったことに、反発を覚えた。


「娘さんが不当に扱われてるのは、しょうがないじゃない。娘さんの問題はもういいです。職安行った話をもっと話して。ああーカウンセリングなんかの枠に入れられちゃった。意味ないのにねぇ」






私は、今回の診察でいっとう話したかった、自分の気持ちを動く方向に撫でてくれたもの。「親身になってくれた職員さんの言葉が心底有り難かった」という内容を、話すことができなかった。





私は主治医に、辛かった、今も辛いんだって、なんか後遺症も娘と二人分のようなもので、いろんなもの引き寄せて、全然上手にできない自分はテンテコマイで、だけど少しでも動けそうだと思えば何とかしなくちゃって焦って、苦しいし全然ご期待に添えないでいるけど、いつも歯を食いしばってるんだって。わかってもらいたかった。


よく頑張ってきたって。
私が毎日、もうダメだ。今日を終われるのか。そうやってあえいで、薬を足し飲みながら繋いでいる事を、知って、認めてほしかった。



ハロワのおばちゃんが2時間、私の身の上話みたいなものを聞きながら、無責任に浴びせるように言ってくれたことを、どうして主治医のあなたが言ってくれないの。


身動き取れずにうずくまったまま石になりそうな私を、少しでも動けるようにしてくれたハロワのおばちゃんがしたことは、主治医からしたら、要らぬお節介だとでもいうのだろうか。だったらその解説を聞きたい。


私は、学校のやり方をみていても、よく思う。
望む結果があるなら、やり方はいろいろあってもいいじゃないって。
何を思って、一本道なのか。




面倒かもしれないけど、認めて貰えなければ、私は原因と結果を同じ認識でつないだ状態で、先の話が出来ないじゃないか。
その面倒、主治医の仕事の範疇だと私は思っているんだけど、この認識も間違いなのか。


そんな都合よくショートカットできるなら、病院になんか来ることもなく、だれがどうであれ、自分の事最優先で楽に生きていたでしょうよ。






ノイローゼの延長上にいる、ハイリー・センシティブ・パーソン気質がありそうな過剰適応やらなんやら重装備のアダルトチルドレンな私だけど、人間だから。
ややこしくて面倒だけど人間だから、犬のしつけじゃダメなんだと思うよ。







誰から見ても元気に走り回れるように。
仕事にやりがいを見つけ、周囲に人の輪が作れるように。
好きな事を、屈託なく笑いながら楽しめるように。
子供の事は子供の事と、割り切って、自分の人生を謳歌できるように。



それを促し誘導する必要性を感じる立場なら、私の心の鍵が必要でしょう。



私を知らない人からすれば、仕組みが謎だらけの魔法の鍵かもしれないけど。






私にすれば、すごく単純で簡単すぎて、子供のおもちゃみたいなもので、これが鍵だなんて恥ずかしくて言えないんだよ。




自分でこさえて開けるのは難しいから、通院してるんだけどな。




沢山打ち込んで、頭がしんしんする。

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